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 『上野広小路遺跡三橋遺構』(その3) 上野たちばな マスター  2025年11月4日(火) 12:34
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        「寛永寺の伽藍」
 
 三橋を渡ると黒門@、仁王門(1721焼失)と続き、清水観音堂A、山王社B、文殊楼C、時の鐘D、大仏殿E、薬師寺、五重塔、東照宮、さらに儀式鍾F、常行堂Gと法華堂H(両堂を合わせて「にない堂」と呼びました)、その先に空水塔I、輪蔵J、水盤舎一対、根本中堂Kと続きます。
 根本中堂は寛永寺の本堂に当たり、現在の上野恩賜公園の大噴水(噴水池)の位置にありました。その背後には、輪王寺宮の住居である本坊が現在の東京国立博物館の位置にありました。さらにその後ろには四代将軍徳川家綱や五代将軍徳川綱吉の霊廟があったことから、これらの将軍の命日には当代の将軍は本坊から、大名は36坊の子院から、それぞれ霊廟を参詣しました。

       「上野恩賜公園と寛永寺」
 現在の上野恩賜公園の一帯は、江戸時代、天台宗東叡山寛永寺の境内でした。寛永寺は江戸の鬼門(東北)に当たるこの地に、二代将軍 秀忠、三代将軍家光の援助のもと、寛永2年(1625)に天海僧正により創建されました。当初は幕府の祈願寺でしたが、四代将軍家綱の死後、芝の増上寺と共に徳川家の菩提寺となりました。慶応四年=明治元年(1868)の戊辰戦争(彰義隊)によって、寛永寺の伽藍の大半は焼失しました。その跡地の多くは現在の上野恩賜公園となり、今日では博物館、美術館、動物園、音楽ホール、大学などが立ち並ぶ、文化の中心になっています。

 この版画は、明治22年(1889)に小島勝月という画家が往時を偲んで描いたものです。江戸時代のことをよく知らないため、間違ったことも描いていますが、勝月がこの絵を描いた当時は、まだ三橋は江戸時代のまま残っていたので、橋の描写は正確で雰囲気もよく伝わってきます。三橋の背後には、黒門や文殊楼(山門)も描かれています。
三つの橋のうち中央の橋は「御橋(みはし)」とも呼ばれ、将軍と寛永寺の山主である輪王寺宮だけが渡ることができた橋で、左右の橋よりも幅広でした。寛永寺に向かって左の橋は、谷中方面 への道(谷中道)につながることから「谷中橋」と呼ばれていました。

                 https://youtu.be/nbu9OAF5Hkc

   
     平成二十三年六月
                    台東区教育委員会    

 『上野広小路遺跡三橋遺構』(その3)追加画像 上野たちばな マスター  2025年11月4日(火) 12:39 修正
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 『上野広小路遺跡三橋遺構』(その2) 上野たちばな マスター  2025年10月24日(金) 15:02
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      「間知石の石組水路」(発掘当時の様子)
 
 発掘された石組水路の高さは約3〜4mで、間知石が8〜9段つまれていました。この展示では実際に出土した間知石のうち4段分と実際に底辺に敷かれていた底板を用いて、石組水路の半面を再現しています。間知石は伊豆で採掘された小松石が使われています

      「緊結された底板」
 底板は砂地を抑えるために間知石の下部まで入れられていました。板には厚さ12pのトガサワラ材が使われ、木口は契り(ちぎり)で緊結し、吸い付き桟で接合していました。三橋は元禄時代頃に架けられ、この時代に寛永寺の中心伽藍である根本中堂が創建され、多くの堂宇と36坊の子院も整備されています。

      「底板に遺された古銭」
 上野広小路遺跡三橋遺構は、将軍が寛永寺に参詣する際に渡った忍川に架かる中央の橋とその左右の小橋(「三橋」と呼ばれていました)の橋台を構成する石組水路であると考えられています。当時使用されていた銭貨(寛永通宝)が、この遺構から出土した木材の板(底板)に張り付いた状態で発見されています。

 追加画像 上野たちばな マスター  2025年10月24日(金) 15:08 修正
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 追加画像 上野たちばな マスター  2025年10月24日(金) 15:12 修正
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 大江戸歴史探訪 『上野広小路遺跡三橋遺構』 上野たちばな マスター  2025年10月17日(金) 22:32
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『上野広小路遺跡三橋遺構』               
所在地  台東区上野公園二番(台東区有形文化財)

 上野広小路遺跡三橋遺構は、台東区立上野中央通り地下駐車場を建設する際の敷地内発掘調査により、平成十七年度に発見された石組水路の遺構で構築年代は十七世紀後半頃と推測される。
 江戸時代には、不忍池の南東角から広小路を横切るように東へ水路(忍川)が流れており、忍川には寛永寺に参詣するための三つの橋(中央に将軍が参詣する時に使用した大橋、左右に一般用の小橋)が掛けられていたことから、「三橋」と呼ばれていた。
この遺構は、三橋の下部構造(橋台)の一部を構成する石組水路であると考えられている。
 発掘時、石組水路は深い部分で上幅三メートル、下幅一メートル、高さ三メートルあり、石垣は「間知石」を積み上げ、底面の砂層の上には板材が組み合わせて敷かれていた。
 本遺構は遺存が良好であり、底面に類例の知られていない板敷を有するなど貴重である。また忍川と上野広小路の歴史を解明し、寛永寺と三橋の関係を考える上でも重要である。
 ここでは、上野広小路遺跡三橋遺構から実際に出土した石材・木材を使い、石組の半面を再現して設置・展示している。

 追加画像 上野たちばな マスター  2025年10月17日(金) 22:36 修正
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 追加画像 上野たちばな マスター  2025年10月17日(金) 22:37 修正
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 今夜、月下美人の花が一輪、咲きました 上野たちばな マスター  2025年10月8日(水) 0:02
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今夜、月下美人の花が一輪、咲きました
2025年10月07日(火) 23時53分

今夜はお店が終わって家に帰ったら
月下美人が一輪、神々しく凛と咲いて居ました
部屋の中に入れて甘い香りの漂う中でスマホ画像を撮りました
余りの美しさに画像をUPしました。
親バカですね。

たちばなマスターあきら

 追加画像 上野たちばな マスター  2025年10月8日(水) 0:03 修正
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 追加画像 上野たちばな マスター  2025年10月8日(水) 0:04 修正
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 追加画像 上野たちばな マスター  2025年10月8日(水) 0:05 修正
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 9月29日に今年2期目の月下美人の花が咲きました 上野たちばな マスター  2025年10月1日(水) 22:24
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今年は温暖化の所為か、開花の時期が少しズレているようです。
前回は9月3日に3輪咲きましたが、今回は7輪も一気に咲きました。
月下美人を育ててから10年近いのですが、珍しいくらいです。
今回も画像を沢山撮りましたのでUP致します。今回も丑三つ時の撮影でしたが転んで怪我はしませんでした。何時までも若くは無いから慎重にしました。

 追加画像 上野たちばな マスター  2025年10月1日(水) 22:25 修正
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 追加画像 上野たちばな マスター  2025年10月1日(水) 22:27 修正
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 追加画像 上野たちばな マスター  2025年10月1日(水) 22:28 修正
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