「間知石の石組水路」(発掘当時の様子) 発掘された石組水路の高さは約3〜4mで、間知石が8〜9段つまれていました。この展示では実際に出土した間知石のうち4段分と実際に底辺に敷かれていた底板を用いて、石組水路の半面を再現しています。間知石は伊豆で採掘された小松石が使われています
「緊結された底板」 底板は砂地を抑えるために間知石の下部まで入れられていました。板には厚さ12pのトガサワラ材が使われ、木口は契り(ちぎり)で緊結し、吸い付き桟で接合していました。三橋は元禄時代頃に架けられ、この時代に寛永寺の中心伽藍である根本中堂が創建され、多くの堂宇と36坊の子院も整備されています。
「底板に遺された古銭」 上野広小路遺跡三橋遺構は、将軍が寛永寺に参詣する際に渡った忍川に架かる中央の橋とその左右の小橋(「三橋」と呼ばれていました)の橋台を構成する石組水路であると考えられています。当時使用されていた銭貨(寛永通宝)が、この遺構から出土した木材の板(底板)に張り付いた状態で発見されています。
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