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■ オジーの東京ブラツ記 『江戸時代三縁史跡』『銅鍾 石町 時の鐘』 銅鍾2025. 4.9

 江戸時代最初の時の鐘で、二代将軍秀忠の時は江戸城内の西の丸でついていたが鐘楼堂が御座の間の近くで差し障りがある為、太鼓に変えて鐘は日本橋石町に鐘楼堂を造って納めたのが起源で、明暦三年(1657)、寛文六年(1666)、延宝七年(1679)、と三度も火災にあい破損したのでその後身として宝永八年(1711)に鋳造されたのがこの宝永時の鐘である。音色は黄渉調長久の音という。享保十年(1725)旧本石町三丁目北側の新道の間口十二軒奥行十九軒三尺の土地に鐘楼堂を建て、時銭として一軒につき一ケ月永楽銭一文ずつ当、鐚(びた)で四文ずつを商業地区の大町小町横町計四百十ケ町から集めて維持していた。鐘役は最初から代々辻源七が当たっていたので、辻の鐘とも呼ばれていた。鐘楼下には俳人蕪村が夜半亭と名づけて句会を催して、深川の芭蕉庵と共に有名であった。当日江戸には日本橋石町、浅草、本庄、横川町、上野芝切通、市谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺の九か所に時鐘があったが石町時鐘はその最古のものである。石町鐘楼堂から二丁程の所に伝馬町獄があった。囚人たちは種々な思いをこめてこの鐘の音を聞いたことであろうし、処刑もこの鐘の音を合図に執行されたが処刑者の延命を祈るかのように遅れたこともあって、一情 情けの鐘とも伝えられている。幕末時鐘廃止後は石町松沢家の秘蔵となっていたが、十思後援会が寄進を受けて昭和五年九月十思公園に宝永時鐘鐘楼を建設した。