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■ オジーの東京ブラツ記0038 『向島百花園と墨堤公園』 | 2024.10.18 |
『向島百花園と墨堤公園』 少し秋めいて金木犀の香がそこはかとなく漂ってきたので、初秋を感じようと思い、墨田区の『向島百花園』に出掛けました。 『向島百花園』は1804年に造られたと云うから徳川幕府江戸開府(1603年)より201年も経った頃、つまり文藝文化の円熟期と謂われた頃と思われます。 骨董屋を隠居した『佐原鞠鵜』という人が向島に膨大な土地を購入して、江戸の文人たちにお声掛けして造った庭園だったそうです。 いうなれば『佐原鞠鵜』自身も含む江戸文化の文人たちの開かれた集会所でも有りました。 植えられた樹木も文人仲間に呼び掛けて集まった樹木で植物園が出来ました。 文人たちは自分達の庭として手塩に掛けて、梅の木が数百本と尤も多く、その他の樹木も相当数植えられました。 そして草木・野草・秋の七草・春の七草・四季の其々の花々が咲き乱れる『四季の花図鑑』の様な庭園を造りました。 私は近頃漸く猛暑も納まり『萩の花』を愛でたいと思い、独りで庭園を巡りました。 『萩』は仙臺萩、又は宮城野萩と言って歌舞伎の有名な演目で有り、宮城県の『県花』でも有り、私の生まれ故郷でもあります。 そんな萩を観たくて来たのですが、ところがどうした事か花はもう散ってしまい萩のトンネルも葉だけに為って居ました。 秋の七草も略おわって『秋の七草』と書いた立て札だけが有りました。 季節は少々の気候変化にも左右されないで確実に過ぎて行くのですね。 それでも健気な花々たちが私を楽しませてくれます、見た事はあるが名も知らない花、私目には雑草と思しき植物が百花どころでなく千花万花、処せましと生い茂って居ました。 そしてそれらのどんな小さな草花や樹木にもキチンと名札が付けられて居ました。 売店では『向島百花園』特製の花々の葉書、便箋、封筒、暦が販売され、抹茶なども頂ける茶室も在りました。 庭園の至る所に50基位の『碑』が有り、文人たちの歌が刻まれていました。江戸文化の文人たちはこの『向島百花園』で樹木や花々を愛で、池を眺めながら心静かに歌を詠って居たのでしょう。 江戸時代の有名な文藝文化人たち、列記も覚束無い位の人達が樹木や花々や碑を通じて、19世紀の江戸文化を担って居た事が今の事の様に目に浮かび、江戸時代の『向島=別荘地』の名残が窺がえます。 向島百花園から西は隅田川で、対岸を含めて田園風景が広がるその辺りは江戸時代江戸文化の原風景とも謂われている所です。 現在は墨田区『墨堤公園』周辺にその名残を残して居ます。 当時この一帯は橋さえも無く、吾妻橋が1774年に最初に架けられただけで、渡し舟の往来だけが交通手段でした。 『墨堤公園は』は桜の名勝ですが、徳川幕府四代将軍家綱の頃から堤に桜の木の植樹がされ始め、各将軍に受け継がれました。 1725年に八代将軍吉宗が堤防に本格的な桜並木を造りました。 桜並木は元々洪水予防の理由でしたが粋なお江戸の人々が多数訪れてお花見会となり行楽地となって桜の名勝となって行きました。 今に至っても茶屋街や銘菓店、土産屋等が在って年中江戸情緒を楽しませてくれます。 私も今回に限らず年に4〜5回は来ています、当然桜の季節は外しません。 東京の下町の喧騒の中で生息して居るのでここ『向島百花園・墨堤公園』界隈は私にとって尤も癒される所です。 |