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■ オジーの東京ブラツ記0036 『私のアイドル歌手、そしてエンターテイナー・都はるみ』 | 2020. 8.27 |
『私のアイドル歌手、そしてエンターテイナー・都はるみ』 2015年11月24日、東京国際フォーラムで都はるみファイナルコンサートを観ました。 『都はるみファイナルステージ2015』《歌屋 都はるみの集大成〜最後の喝采〜》と銘打ったコンサートでした。 5千人収容の大ホールは超満員の観客で埋め尽くされました。 私の席は1階のやや中央で非常に観易いところでした。 「来年からちょっとコンサートをお休みします」というご本人の軽やかな挨拶とは裏腹に、3時間をも超える数々のヒット曲の熱唱で、完全燃焼するが如くの大熱演でした。 観客もこれが最後の舞台と心からの応援で、静まり返り、あるいは大声援を送り、大会場は凪と時化をくり返す大海原のうねりの様相でした。 私も感激して時折り舞台が霞むほど目頭がジーンとして、当に最後の喝采を送りました。 都はるみは昭和39年、1964年3月20日に16歳でデビューしました。 デビューしてから瞬く間にヒット曲を連発して一躍スターダムに昇ります。 当時はテレビもラジオも歌謡曲流行歌のオンパレードで、レコードも飛ぶように売れていました。 そしてその年の内に、発売シングル3枚目の『あんこ椿は恋の花』がミリオンセラーとなり、日本レコード大賞新人賞を受賞し、将来の有望株として確実視されるようになりました。 さらに翌昭和40年、1965年に発売したシングル盤8枚が続けざまにヒットし、10月に発売になった『涙の連絡船』は又々ミリオンセラーとなりました。 そしてNHK紅白歌合戦に最年少歌手として初出場して、都はるみは押しも押されぬ国民的アイドル歌手に成ったのです。 私がファンになった彼女の魅力は、天性の歌声にありました。 高く強く透明感のある歌声とパンチの効いた歯切れの良い歌声が、私の心の琴線に触れたのです。 よく高く澄んだ歌声は耳にも脳にも心地よく浸透すると言われます。 そんな彼女の歌声は心の歓びも哀愁も存分に表現し、聴く人の心を包み癒してくれます。 しかも彼女は独創的な特別な歌声も駆使していました。 大衆演芸の「浪曲」の独特な唸り声や語り口調を、所々に織り交ぜるのです。 デビューした頃より七色の声の持ち主と云われていましたが、その後、曲数や活躍年数が重なるにつれて、声色や歌唱力が限りなく広がり、声が楽器その物とも謂われる、歌謡界随一の歌手『都はるみ』となりました。 彼女は、歌好きな母親の強い期待と指導の下、3歳の頃から歌手になることを目指す人生を歩み始めました。 母親の決意と努力が支えとなったことは間違いないでしょうが、それでも彼女は生まれついての天才歌手だったのかも知れません。 天性の歌声に恵まれただけでなく、本人自身も目標に確実に突き進む、強い信念を奥深く秘めて居たように思われます。 途中その時々の紆余曲折も当然あったとは思いますが、性格や気質も又俗に言う天才肌と言いますか、めっぽう気の強い女の子だったらしく、一向に他の事に煩わされ、負けることなく遣り過ごしてしまうところがあったようです。 それでも、天才は周りの強い絆で成就されて行くのですね。 時に強い自己主張も、我儘などという表現の域を超えて、天才なるが故の行動力の発現として受けとめられるのだと思います。 そんな彼女は母親の直伝で流行歌を歌い、民謡も数多く歌い、そして又浪曲を唸り、独特な発声法を教え込まれたそうです。 習い事、芸事も沢山させられたそうで、日本舞踊やダンス、歌謡音楽学院と、枚挙に暇がないくらいに通ったそうです。 それら全て彼女を日本一の流行歌歌手にすると謂う命題があったからですね。 彼女も表面では冷めて反発しながらも母親に負けないくらい目標意識が高かったのですね。 そしてその目標の最初の難関が、コロンビアレコードの『コロンビア歌謡コンクール全国大会』に出場して優勝する事でした。 彼女は見事、というか当然の運命というか、優勝しました。 東京の日比谷公会堂で日本一になったのです。 それは昭和38年、1963年9月の事で彼女は高校1年生15歳でした。 コロンビアレコードの専属契約となってデビューを待ち、翌年3月に新人歌手『都はるみ』が誕生したのでした。 私は彼女『都はるみ』と同学年の昭和22年生まれなので、同世代意識から、又可愛く親しみ易いキャラクターを応援したいと謂う気持ちから、大ファンになったのです。 新曲が出るとテレビ放送で観、ラジオ放送で聴き、乏しい小遣いでレコードを買い求めて、その歌を聴き覚えました。 元々音痴な私が鼻唄まじりに所構わず唸るものですから、きっと周りは端迷惑だったことでしょう。 彼女は、歌声は当然ながら魅力的ですが、容姿も魅力的でした。 愛くるしい顔やスタイルや振る舞いは天性の魅力と感じていました。 底抜けに明るく、時に憂いを含んだ切ない表情、小悪魔的な危険性を秘めては居るが、だけど近づかずにいられないような魅力、愛しさを感じていました。 ただし、私が彼女の事を知り得たのは、当然の如く、テレビやラジオの番組や、週刊誌などの芸能ニュースといった、真偽顛倒、玉石混淆のマスコミ報道を通じてです。 そこに更に私の想い入れが多々入り込んでいますので、話が大げさ過ぎたり、浅はか過ぎたり、信ぴょう性に欠けたりする事は愛嬌として聞き流してください。 私の《はるみ命》は友達や家族、近所でも知れわたり呆れられていました。 私が結婚した妻は、『都はるみ』と同じ、『占星術』でいうところの七赤金星の下に、全く同じ日に生まれているのです。 さらに驚くべきことに、血液型まで一緒なので、干支、星座、血液型の三拍子が〈子年〉〈うお座〉〈B型〉と完全に一致しているのです。 私と妻は幼馴染で結婚適齢期に偶然に再会し、愛を育み結婚しました。 気の置けない友達や知人からは、大ファンの都はるみと同じだから、《はるみ命》の流れでの結婚ですか?等とよく笑われましたが、全くの偶然です。 都はるみの地方公演が仙台に来た時は殆ど観に行きました。 最低でも年に1回は公演に来るので何時もワクワクして待ち望んでいました。 20周年時の引退公演も、仙台での公演も観て、更に最終の新宿コマ劇場も勿論のこと、最後の「追っかけ」として馳せ参じました。 新宿コマ劇場は歌謡曲ファンの私にとっては憧れの劇場でした。 そこに初めて、昭和59年、1984年12月30日、最後の『都はるみ引退コンサート』を観る為に、お江戸は新宿歌舞伎町に出掛けたのです。 客席も1階の通路近くを取り、彼女がサプライズ的に客席を廻った時は無理矢理、短い手を伸ばして握手もしました。 地方公演の時も時々握手をしていましたが、あの白い小さい柔かい手の感触は今でも鮮明に覚えています。 ショーは『浪花恋しぐれ』から『夫婦坂』まで歌い捲り、最後は『好きになった人』をアンコールでも歌い、続けて2回も歌いました。 手拍子、歓声、嬌声、五色の紙テープの雨嵐、万雷の拍手喝采で送られました。 流石に日本一だと感動納得した事を思い出します。 この年、デビュー20周年を機に「歌手『 都はるみ』を今年いっぱいで引退します」と突然宣言し、「普通のおばさんになります」と引退の弁を述べるまで、 都はるみは、デビュー以来発売したレコード(CD・DVD)の殆どをヒットさせて、ミリオンセラーも次々と出しました。 昭和43年、1968年9月『好きになった人』 、昭和44年、1969年7月『惚れちゃったんだよ』 、昭和50年、1975年12月『北の宿から』 、昭和55年、1980年2月『大阪しぐれ』 、昭和56年、1981年9月『ふたりの大阪』 、昭和58年、1983年5月『浪花恋しぐれ』 、そして昭和59年、1984年9月『夫婦坂』 と枚挙に暇がありません。 『惚れちゃったんだよ』 、『好きになった人』 はステージではオープニングやアンコール曲によく使われ、明るく楽しい代表的な歌ですね。 『北の宿から』 は日本レコード大賞と日本歌謡大賞をダブル受賞しました、「♪あなた死んでもいいですか♪」と女の心を切々と唄った代表作品でした。 レコード大賞は歌い手は勿論の事、作詞作曲など作品としての評価、それにレコード会社や音楽事務所等々の総合的なプロジェクトの最優秀作品に与えられると聞いています。 そのレコード大賞の代表的3部門を制覇したのは、『都はるみ』彼女だけでした。 デビュー当時の『アンコ椿は恋の花』で最優秀新人賞、そして10周年期の『北の宿から』でレコード大賞、そしてその後の『大阪しぐれ』で最優秀歌唱賞、とレコード大賞三冠王を達成したのでした。 日本歌手唯独りの偉業です。 当に母子で『日本一に成る』 、そんな夢が達成されたのです。 『大阪しぐれ』 、『ふたりの大阪』 は共にカラオケブームの、皆が歌える歌、誰もが口ずさめる歌、聴く歌から唄える歌に変わる頃の時代に合ったロングヒットです。 『浪花恋しぐれ』 は特異な唄声の作曲家、岡千秋と浪曲調のデュエットでした。 引退を表明してからの最後の曲は『夫婦坂』でした。 36歳の彼女が≪♪この坂を越えたなら…四十路坂…夫婦坂♪≫と、歌手『都はるみ』と本人自身の生活、人生を万感を込めて唄います。 彼女の歌手生活20周年での引退は、当時同世代の私なりの感想では、勿体ないとも思いました。 が、余りにも過酷な芸能界の激流に翻弄され続けていては、自分自身を失うと感じたのではないでしょうか。 これは理解できたので、そんな彼女の生き方も好きでした。 勿論色々な反響を呼び社会現象にもなりました。 これからだって黙っていても歌謡界の重鎮として大活躍されるのにと思っていました。 先述したように彼女の意志や言動には、私たちには言い表すことが出来ないような天才的な勘と行動力が溢れ出るのです。 そういう言動と意志は勿論の事、自分の全責任で行動する。 周りに及ぼす影響も公私共々に膨大という事も考え抜き、その上で一度きりの自分の人生を自分なりに生きたい。 これは私の想像ですが、彼女はそう決めたのだと思います。 それを彼女の我儘だと思う人たちも当然に居ます。 私は彼女の生き方は彼女自身で決めて行くのだから、それは凄く良い事だと自分なりに納得しました。 彼女はデビューして彗星のごとく輝き、『アンコ椿は恋の花』の大ヒットで映画出演もしました。 そして流行歌歌手絶頂の頃に、人気シリーズ物の『寅さん』の映画で第31作目の『男はつらいよ 旅と女と寅次郎』に、マドンナ役で出ました。 その時のストーリーは彼女自身の生活その物で、超売れっ子流行歌歌手が自分の内面と現実のギャップに押しつぶされて失踪してしまう、というものでした。 偶然に寅さんと出遭い、佐渡ヶ島まで失踪してしまうのです。 寅さん達と色々な人情話の末、束の間の自由な旅をして、後に無事にひのき舞台に戻っていった、と謂う映画でした。 彼女は我々に大きな夢を与えながら、また若い世代の一人の人間として、自身の生き方に常々悩み続けて居たのではないでしょうか。 私はこの時から特にそう感じていました。 彼女に関するエピソードは数え切れないぐらい有りますが、私が仕事の関係で「微笑みの国」タイ国へ4人で視察旅行に行った時の事です。 仕事の合間に元アメリカ軍の保養地だったと謂うパタヤに観光に行きました。 夜の街に繰り出して或る舞台を観賞したのです。 それは世界各国の有名な代表曲を、綺麗に着飾ったり、又民族衣装を纏ったりして歌い踊るのです。 さながら宝塚歌劇かな?と思っていると、やがて日本のコーナーとなりました。 なんと「都はるみ」が登場して『男が惚れなきゃ女じゃないよ』『アラ見てたのね』を歌い出しました。 私は感動感激してしまいました。 既に彼女は国際的歌手に成っていたのですね。 本当のところ、歌はそのまま本人ですが、舞台上を歌い走り回るのは現地のちょっと太めのお姉さんでした。 彼女の引退前の最後の曲である『夫婦坂』には格別の思い出があります。 私たち夫婦が彼女と同い年ということもあり、またデビュー以来陰ながらずっと応援してきた彼女の最後の歌ということもあって、共に人生を歩んできた彼女が当に私たち夫婦のことを歌ってくれているように感じていたのです。 私は仕事上で苦節七坂が続きました。 妻や家族にも不便な思いをかけ、親戚にも心配をかけていました。 いつか、何かの祝事に一泊の宴会が有った時に、気の進まないなりに参加して居ました。 宴会の後のカラオケタイムでは、いつもなら率先して仕切っているのに、何となく遠慮がちに静かにして居ました。 酒の席でそれ以上の不調法もできなくなり、この『夫婦坂』を唄うことにし、妻と一緒に唄いました。 歌詞に自分を重ねて辛い気持ちにもなりましたが、妻と一緒に唄ううちに自分の心が慰められ、希望も感じるようになっていました。 たかが流行歌ですが、その時の私にはとっては心に染みるデュエットでの『夫婦坂』でした。 私は今年73歳、苦節七坂は35年以上も続いていますが、まだまだ続きますので、唯々健康に気を付けて頑張るだけです。 「都はるみ」は36歳で引退の後は彼女なりの充電期間が有り、約5年半後に華々しく歌手復帰をするのですが、私のエッセイは、ここで(第一部)として締めます。 次の『エンターテイナー・都はるみ』としての(部)まで書き進めるつもりです。 御用とお急ぎのない方はどうぞ気長にお待ちください。 |