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■ オジーの東京ブラツ記0035 『次兄と母』2020. 5.30

『次兄と母』
  
 私は7人兄弟の6番目の三男です、姉3人、兄2人、妹1人の3男4女です。 1947年生まれで所謂団塊世代の奔りで、日本中何処に行っても同級生が多くて競争率が激しいとか、小石でも放り投げたら必ず昭和22年生まれに当たる等と云われていました。 そんな中でも私自身は幼少期、少年期は貧しさを貧しさとも感じず、大した不自由もなく野放図に暮らしていました。 身体は人一倍小さいのですが自由奔放に野山に遊び惚けていました。 家族や近所の人からはこましゃくれた小うるさい子と云われて、物心がつく頃から「男は黙って!お喋りはしない事!」と云われ続けていました。 それくらいウルサカッタのですかね、自分自身では余り悪いとは思っていませんでした。 それで何時の間にか無口になり話下手になりました。 そして今では「寡黙な人、何を考えているか判らない人」に成ってしまいました。 

 母は結構、厳しい人でした。 7人もの子供たちと一家9人が貧乏所帯で暮らしていたのですから、当時は当たり前の事ですね。 私と3歳年下の妹はよく従兄弟や近所の子供たちとご近所界隈を遊びまわっていました。 6歳上の姉はよく妹を連れて学校に子守通学をしていたのですが、家の都合などで母から「『おヒマ』を貰ってこい!」と言われて時々早退していました。 私は『おヒマ』を何か美味しい食べ物と思い込み、ソレを貰ってきたら頂戴と言って、当然のことに母から叱られました。 

 次兄と私は3歳違いでした。 3歳違いの兄弟なら普通は仲良く遊んでケンカもして母親から叱り飛ばされて、一緒に元気に育って居た筈でした。 私が小学生になった頃から何かが違うような気がしていましたが、それでも深く聞こうとも考えようともせず能天気に遊びまわっていました。 兄は小学校5年生の頃から中学2年生まで入退院を繰り返していたのです。 病名は『小児ネフローゼ症候群』。 この小児ネフローゼ症候群は小児の慢性腎疾患で最も頻度が高く、日本では小児10万人あたり7人くらいがこの病気を発症するそうです。 尿中に大量の蛋白が漏れ出て血液中の蛋白が極端に少なくなる原因不明の難病で、今は小児慢性特定疾病に指定されています。 

 初発症状は、血液中のタンパク質(アルブミン)が減少することで水分が血管の外に逃げ出してしまい、尿に塩分が出にくくなる。 そのため残った塩分が水分を蓄え尿の量が減る。 そして尿が減少して浮腫に繋がる。 浮腫は重力が影響するため朝は目瞼、夕方は下肢下腹部に強く浮腫がでる。 瞼や全身が浮腫んでだるくなり、手足を指で押しても戻らない。 全身の浮腫がひどくなると、胸部や腹部に水がたまる。 この様な症状が表れてくる病気です。

 兄は長期の入院を繰り返す以前から、この様な症状が表れていたのでした。 いつ頃からか気が付きませんでしたが、運動会や体育などは見学していました。 又、遠足などの校外授業の時も家に居たような気がします。 近所の子供達と一緒に遊んでいても、激しいチャンバラごっこや格闘技(相撲・プロレスごっこ)の中には居ませんでした。 偶に遊び仲間たちと私がケンカになった時や、自身がケンカを仕掛けられたときは、真剣に私を庇い又対抗していました。 今思うに、兄のあのときの傷ましい心情は、私に不思議な感じを抱かせました。 『兄は病気なのだ、兄の心を痛ませては駄目だ』と、兄を想うようになったのです。  

 兄は5年生頃から長期入院するようになったはずですから、私は2年生だったのです。 だから、私にはハッキリとは知る由も無かったのですが、それまでも何年も前から兄は不自由な生活をしていたのです。 母の兄への接し方、家族みんなの兄との関わり方が、知らずしらず自然のうちに、優しい心遣いとなっていたのでした。 この心遣いはご近所や親戚、学校までゆき届いていました。 兄の同級生の人たちは私に会うたびに、兄の安否を訊ねては励ましてくれていました。

 母は家事一切、子育てや雑雇の仕事、父の手伝い、兄の常日頃の看病にと相当に苦労していました。 兄への世話はやんちゃな私さえ感じるくらい、特別に手厚いものでした。 時々の通院は一日がかりで、兄を背負って街の病院まで通っていました。 通常の食べ物にも、浮腫みの軽減につながる、塩分無しの料理や滋養のある特別な食べ物、貴重なスイカや果物の缶詰などの食事療法に気を使っていました。 あまりにもやるせない時は寒い夜でも近所の祈祷師に神頼みに駆け込むこともあり、またお釈迦様の有難い話をしてくれる、観音様のような御婆さんに会いに行き、気持ちを癒すこともあったようです。
  
 兄の病状がいよいよ重症化して長期の入院を繰り返すようになったのは兄が5年生になってからでした。 学校も在籍だけで殆ど通えなくなり病床で本を読むだけでした。 後に母からよく聞かされたのですが、兄はそんな状況の中でも成績の良かった子だったと、そしてクラスの中でも特に優秀な3人のうちの一人だった、と。 更に後々の話では、この兄の親友は夫々に大学教授、高校の校長先生として活躍しているということでした。 母は殆どの時間を兄の看病に費やし、その間隙を縫うように家族のため家事全般をこなし、しかも農作業やら何やらと常に働いていました。

 兄と母の闘病生活、看病生活はそのあと約3年半続きました。 兄は遂に帰らぬ人となりました。 その日は今でも覚えています。 在籍だけの中学2年生の6月1日でした。 私は3歳下なので5年生でしたが、子供の時の記憶ながら所々、兄との最後の別れに遭遇した情景を思い出します。 兄はその日の午前に、街の市立病院から姉達と一緒に、ハイヤーで田舎の我が家に瀕死の状態で帰ってきました。 家族、親戚の人たちや近所の人達が心を痛めながら出迎える中で、酸素吸入を装着して激しい息使いをして、もちろん意識は無く朦朧とした状態でした。 

 床の周りに集まった人たちからそれぞれに溢れ出る、励ましやすすり泣き、そして慰める言葉のやるせなさ。 気丈な母の鬼気迫る、怒号にも似た腹から抉り出す呻き声。 近所の開業医の若奥さんが状況を察し、「こんなにも頑張ったのだから楽にしてあげましょうね」と、同意を求めました。 それからは吸入器を外し、みんなで水を浸した脱脂綿で口を湿らせました。 そして兄の今まで長い間の頑張りと、今日の最後の頑張りを口々に褒めて労い、やがて言葉にならない号泣とすすり泣きにかわっていきました。 

 この日の早朝、病院で付き添いの姉たちから連絡がありました。 「尿毒症症状が酷くなり危篤状態なので、もう駄目だから家に連れて帰りたい」と。 今から63年も前の事、田舎の私の家には電話機もありません。 近所の大店の電話機で取次ぎ、「託け」してもらうのが常でした。 そして、この朝家に届けられた託けは「お亡くなりになったそうです。 ハイヤーでこちらに向われているそうです」と、いうものだったのです。 母始め家族は悲しみのどん底に落ち込み、1時間以上も掛かる帰路時間を待ちました。 しかし、みんな気が動転していたため判断能力が低下し、実は、正しい伝達が行われていなかったのです。 
 
 「託け」の人も、亡くなった人はハイヤーでは搬送できないので、ハイヤーで来るという事は未だ亡くなってはいない、と判断して伝えなければならない。 母と家族も、もし、亡くなったと伝えられなければ、大店まで駆けて行って電話を掛けていただろう。 そして出来るだけ詳しく危篤状態を聞いた筈です。 そして3時間も掛かってハイヤーは着いたのです。 瀕死の兄の状況を目の当たりにして、事情を知った母は、気も狂わんばかりに連絡のチグハグさを怒り、もっと速く兄の側に居てあげられなかった事を嘆き、泣き叫びました。 

 兄が亡くなってから母は毎日毎日泣いていました。 それは子どもの私にも辛く思え、母が可哀そうだと思いました。 何かにつけて咽び泣き、嗚咽することも多々ありました。 そんな、子を亡くした母の悲しみは1年経ち、3年、7年経っても変わる事はありません。 例え何十年経っても忘れる事はないのでしょうが、そうは言っても毎日四六時中忘れる事が無い訳ではないですね。 『時が解決する』、そうですね、人間は殆どの場合どんな理不尽な境遇に接しても、時が解決して忘れさせてくれます。 そして「しかたがない」と言って、現状を心でしっかりと受け止め、そこから覚悟を決めて又歩き始めるのですね。

 苦労が絶えなかった母は、自分は長生き出来ないのでは無いかと常日頃言っていました。 が、5年前に百歳の天寿を全うして静かに逝きました。 親不孝の私は死に目にも会えず、一番心配かけたから、せめてもの供養に通夜は独りで添寝をしました。