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■ オジーの東京ブラツ記0033 『つづり方』2020. 5. 3

『つづり方』

 その昔、私が小学1年生の頃(1953年)は、作文のことを『つづり方』と言っていました。 本来は旧制小学校の教科のひとつで、文章を作る方法、それが『つづり方』でした。 それをなにぶん田舎だったので、新しい制度になっても、周りの人たちがこの言い方をしていたのかも知れません。 
 
 夏休みの宿題に「作文」を課せられていました。 2学期の初めに出した私の作文が県の『作文』という冊子に掲載されました。 内容は大まかですが覚えています。 そして担任の先生が一生懸命、アドバイスして校正していたことも覚えています。 

 私の父はその当時「炭焼き」をして生計を立てていました。 方々の山の雑木林を契約買取りして、出来た『炭』を代引き或いは現金で取引していたのです。 当時の燃料は木炭が主流だったので、子沢山の9人家族が生活していくのには間に合ったみたいです。 そんな父の仕事を、夏休みにはよく母や兄姉たちについて、遊びがてら見学に行ったのです。

 作文の内容は、その奥深い山道の、私にとっては遠足のように、楽しい往復の時に感じたことを書いたのでした。 母や兄姉たちは皆のお弁当を用意して、山支度して出かけます。 私も早起きして、そして親戚の犬も当然の様な顔をしてついてきます。 

 この犬は雑種の中型のメス犬ですが頭が良くて非常に穏やかなのです。 作文にはこの「マリー」も登場します。 みんなは山道を黙々と歩きますが、私とマリーはハシャイでじゃれ廻ってついて行きます。 マリーは飼い犬ですが繋がれていません、当時は繋がれていない犬は多くいました。 そして街の端の方々まで遠出していました。 私は他の慣れない犬は怖かったし、特に放されている犬は、怖くて見かけると遠くから警戒していました。 でもマリーだけは、人間と動物の隔たりを感じない安心した間係で、他の犬とは別格でした。 

 或る雨の夜にマリーは、とても悲しい遠吠えをしていました。 母はマリーが何故、あんなにも悲しんでいるのかを話してくれました。 今度も子犬を沢山生んだのです。 今まで何度も床下に子犬を生んだのですが、何時も引き離され捨てられていたのです。 マリーは今度も又、捨てられると思い母性本能からか鬱蒼とした竹藪で生んだのです。 雨に濡れながら生まれたばかりの子犬たちを必死に守っていたのです。 母も私もマリー親子の憐れさを想い、切ない気持ちになるのでした。 そんな事が有っても翌日は従兄弟たちと一緒に、叔父さんから子犬たちを捨てるようにと川に行かされてしまうのです。

 炭焼き小屋では、その時は既に窯から出した炭を、規定の長さに切り揃えて、茅を編んだ炭俵に詰め込むという仕事の最後の工程でした。 父は顔や体中真っ黒になり黙々と作業していました。 そんな仕事の表情は決して威厳に満ちた畏怖は感じさせず、ただ穏やかな和顔でいました。 
 
 父は常々、炭焼きの其々の工程を全部独りでやっていました。 炭焼き窯を造り炭焼き小屋を建て、炭と成る木を切り出し小屋まで運びます。窯に木を整然と並べて、燃料となる雑木を効率よく詰めます。 何日も掛けて準備を整えて火を入れます。 それで小屋に泊まり込み、何日も徹夜して炭が首尾よく出来上がるのを監視します。 季節の合間には炭俵も自分で編み、藁縄も大量に作っていました。 家族も総出で大きめの炭小屋に積み重ねて、出荷日を待つのです。 やがて出荷検査も合格してトラックに積み込まれます。 こんな時の父の穏やかな顔は一段と崩れそうな笑顔でした。 
 
 やがて家族みんなで食べる楽しい昼ご飯も終わり、帰り路は兄姉父母それぞれに炭俵を担いで山を下りるのです。 姉二人は一俵ずつ、母は二俵、兄は三俵、父は四俵、私とマリーは手ぶらで意気揚々として帰ってきました。 作文には帰る道すがら、私が滑って転んだことも、マリーが纏わりついたこと等も書いていたような気がします。 副賞の盾等も貰ったけど、66年も前の事で残っている筈もありません。

 父の炭焼きを思い出し、余り多くを語らなかった父の謎のルーツと、家庭を築き家族がそれぞれに巣立った感謝の経緯を探ってみるのも好いな、と思い後々書いてみたいと思います。 又、母の人生の思い出も辿って書いてみたいと思っています。