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■ オジーの東京ブラツ記0030 『すみだトリフォニーホール《千人の交響曲》』2016.08.31

『すみだトリフォニーホール《千人の交響曲》』

 墨田区錦糸町の、すみだトリフォニーホールに『千人の交響曲』マーラー、交響曲第8番を観(聴き)に行って来ました。 錦糸町にこんな立派な、パイプオルガンや音楽設備の整ったホールが在った事を、 恥ずかしながら隣の区に住んで居ながら知りませんでした。 如何に東京は広く深く大きいか、私の無知さ加減が酷いかを感じさせられました。
 
 グスタス・マーラーは(1860〜1911)というから、51歳という若さで亡くなられたのですね。 亡くなる5年前に作られた、「交響曲は『世界』でなければならない。 全てを包含するものでなければならない」と言っています。 そして亡くなる1年前の50歳の時に、「これまでの私の全ての交響曲は、この曲に対する序曲に過ぎなかった。 と、またこの交響曲は偉大なる歓喜と栄光を讃えるものだ」と称されました。 マーラーはミュンヘン博覧会での初演を自ら指揮して、千人を超す演奏者と3000人の聴衆で生涯最大の成功を収めたそうです。
 
 交響曲第8番変ホ長調は、高らかに賛歌を唱えてから始まり、激烈な大合唱が歌われ続ける。 「この声の交響曲は、始まりから終わりまでずっと歌われている」と謂われる様に、オーケストラ・合唱団・児童合唱・8人のソリスト、それに若いエネルギッシュな指揮者(ダニエル・ハーディング)等が、魂を奮わせて歌い続けます。 当に「千人の交響曲」の度迫力その儘を、ホール一杯響かせて我ら聴衆を興奮のるつぼに導きました。 私も度肝を抜かれ狂うくらいのカルチャーショックを受けました。

 私と交響曲との出会いは、中学1年の音楽授業でのレコード鑑賞です。 最初の時間に『交響曲第6番』ベートーヴェンの「田園」を聴かされました。 初めて聴いたこの音楽は、私のそれまでの音楽の範疇には無かった異質な音楽でした。 しかし何故か見た事も無い情景が浮かび当にヨーロッパの田園風景が頭の中一杯に広がりました。
 
 こんな素晴らしい音楽の授業をしてくれたのは、当時新任だった女の先生でした。 見るからに才媛と思しき先生が口角泡を飛ばし、じゃなくて口端に泡が微かに漏れるほどに熱弁を奮って授業をしてくれました。 少し冷めて居る子が多い中、私は目新しい音楽の授業にドンドン興味を持つ様になりました。 
 私は子供の頃から音痴と謂われ、小学校の少年少女合唱団にも入れてもらえず、当時ハーモニカバンドの合奏団にも声が掛かりませんでした。 そんな音楽的素地が全くない子が、その女先生の授業で目覚めました。 音符とか音の決まり事が有ることも新鮮で、それがテストとして筆記試験になる事も驚きでした。 興味深く受けた授業なので定期考査なる試験も良い点を取ったものです。 如何せん根が音痴なので、音符を読んでそれを自分の声で正しく発声が出来ませんでしたから、独唱も合唱も大の苦手でした。 
  
 高校生の時に生徒会の役員をして居て、或る時、校歌と並ぶ「応援歌を作ろう」という事になりました。 それでは斬新な応援歌を作ろうという事になり、作詞は社会科のベテラン先生、そして作曲は音楽科の先生でした。
 この時の音楽の男先生は優秀な先生で、私達生徒会の要望に応えてくれました。 そして、ナント!! オペラ『アイーダ』、ヴェルディの第2幕第2場での「凱旋行進曲」をアレンジして作ってくれました。 
この『応援歌』発表の時は全生徒初め我々生徒会役員、そして先生方も全員が感激したものです。 まるでオペラの初演を演じ切った様な感動を覚えました。 50年以上経った今は、母校も何時の間にか統廃合の波に揉まれ、私の心からは消えてしまいました。
 
 学生の時もクラッシク音楽が好きで単位取得の件も有り受けました。 授業内容は殆どが交響曲のレコード鑑賞会だった様な気がします。 或る時、授業中に突然私に衝撃が走りました。 何時の間にか居眠りをしてしまい、何度か艪を漕いでいる内に突然後ろに倒れたのです。 パイプ椅子の様な簡単な物だったので、辛うじて椅子までも倒れはしませんでした。 が、全身鞭打ち状態になり、首は完全な交通事故状態でした。 それでも何食わぬ顔で座り直し授業を受け続けました。 周りの学生や先生は何も無かった様に、唯々冷ややかだったのは覚えています。 それから鞭打ち症で暫く苦しみましたが、痛いレコード鑑賞会授業は続きました。

 今、時々出掛けて居る芸術鑑賞会では居眠りして居ません。 『千人の交響曲』は居眠りどころか息をつく間もなく畳掛かる合唱音楽に、感動し私の 小さな胸が打ち震え続けました。 近日中の次なる芸術鑑賞も控えているので、期待に胸を膨らませて居ます。