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■ オジーの東京ブラツ記0024 『大衆演劇、浅草六区』2015.03.06

『大衆演劇、浅草六区』

 「竜小太郎新春ゆめまち華舞台」を観劇してきました。 流し目のスパイナーと称される彼は、幼少の頃「浪速のチビ玉」と称されて大衆演劇ファンの人気者でした。 でした、と過去形で書きましたが決して過去だけの人ではなく、現在も活躍し益々充実している大衆演劇の看板俳優です。 人情芝居や歌謡ショーや舞踊、全てが観客を充分に楽しませてくれます。 そして「小太郎十八番の男形・女形早変わり舞踊ショー」は圧巻で度肝を抜かれました。 観客に息もつかせぬ早変わりで30回は着替えただろうか、何れもため息交じりの歓声で舞台と客席が一体化してしまいます。 
 
 「大衆演劇なのにこんなにも凄いのか!」と自分の認識の甘さにちょっと恥ずかしさを感じながら感動していました。 いみじくも「大衆演劇なのに」と言ったけれど、私を始め余り馴染みのない人は皆きっと安易にそう思うことでしょう。 大衆演劇の定義はどうなのか?なんて、漠然と思い込んで居るだけで突き詰めて考える事も無かったですからね。
 大衆演劇とは旅役者とも呼ばれる劇団が各地をまわって公演する日本の演劇ジャンル。 時代劇や歌謡ショーをベースとしている。 確立された定義は無いとされるが、劇場またはセンター(特設舞台小屋)で観客に解り易く、楽しめる内容の芝居を演じる事。 観客と演者の距離が近く、一体感があること。 安い料金で観劇できること。 

 少年の頃、田舎の温泉湯治場の街で育った私は、よくドサ周りの旅役者の芝居を観て居た。 年に2〜3回は農閑期などに小屋を掛けて、1週間ぐらい芝居を打って居た。 主に夜の公演だったと思う、家族総出で出掛けるので何時も小さな仮芝居小屋(綿打工場だったかな?)が満員だった。 
 出し物は色々有ったが人情芝居が大人気で、観客までが同化して芝居に入り込む。 仇役に対する怒号やヤジが「この!人でなし!」とあちらこちらから飛び交い、また冷たい仕打ちに遭う主人公に同情のすすり泣きが漏れ聞こえる。
 物語の終盤のヤマ場では歓声や拍手が沸き起こり、笑いと涙が入り混じり歓喜のスタンディングオベーションでアンコールを促す。 先程迄とは打って変り、仇も主人公も満面の笑みで拍手に手を振って応えます。 特に子役などには沢山のお捻りが飛んで行きます。 
 また偶にアンコールに応えて即興?の寸劇が演じられたりします。 泥棒に押し入った気弱な男が、反対に強欲主人に身包み剥がされて、這うほうの体で放り出される、と謂うあらすじ。 最初は帯などを褒めちぎって強奪し、順を追って最後は下帯迄も奪い取る、勿論最後は突如暗転してシャンシャンシャン、おおよその落ちは知りつつも観客は大爆笑でおひらきです。 

 演目に「傾城阿波の鳴門・巡礼唄の段」がよく演じられ、それには必ず可愛い少女の子役が出てきます。 当時私は子供ながらに、あの子は学校に行って居るのだろうか?勉強はしているのだろうか?と疑問に思って居ました。 その頃は旅役者の子供は転校と謂う形で私たちの学校に入って来ました。 そして1週間もしない内に又転校でお別れになります。 もう記憶も薄れてしまったが、子供同士で直ぐに仲良くなって一緒に遊んだ、また幼い恋心と憧れを抱いて少女を見て居た様な気もする。 
 私の妹などは旅芸人の子役を羨ましがって、就いて行きたいと云って居た。 「子供に為れば綺麗な着物を着せて貰って、旨い物を沢山食べさせられて、お小遣いも一杯頂いて、そして勉強もしなくて済むもの!」と云っては、母親に「何処にでも行きなさい!どうせ橋の下から拾ってきた子だから!」と突き放されてベソをかいていた。

 浅草界隈には大人の郷愁が沢山詰まっています。 私は大正、昭和の最盛期の頃を知らない、しかし私にとっての昔の懐かしさは至る所に在る。 そんなムカシに出遭い驚きそして感動したい。 
 若い頃はムカシを半ば軽蔑し話題にするのも憚った、「ムカシはね!」と思っただけで、又誰かが言っただけで、進歩が無く懐古に耽って居る、と決めつけていた。 老け込んだと思われたく無く、先を目指す積極さを強調してツッパッテいた事が懐かしく思います。 
 
 故事に「温故知新」有り、古き物事に好く興味を持ち、そこから新しい物事を築いていく。 こんな風に思える年頃に為ったのでしょうか。 そんな私は益々足を延ばし東京界隈を散策して、ブラツ記を書きつづけ温故知新に励みたいと思っています。