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■ オジーの東京ブラツ記0021 『元浅草』2014.11.08

『元浅草』

 元浅草と云うから浅草寺はこの辺りに在ったのだろうか? それとも門前界隈だったからだろうか?  いや何故か元浅草と名付けられた経緯は不明だそうで、地名に「元」が付く場合その地名の発祥地で有る場合が普通だが、現在の元浅草は『浅草』という地名の由来となった場所では無いらしい。
 
 そんな元浅草に、東京に出て三畳一間から脱皮するべく2DKを求めて引っ越してきました。 8階建ての賃貸マンションで、5階の西向きではあるが日当たりの良い静かな環境で、界隈は下町風情が多々残って居ます。 早速ベランダに草花の鉢やプランターを並べながら近隣をリサーチして居ます。 すぐ下の階は広いテラス付きなので、各々小さい庭園を形成しています。 草花好きの私は自分の庭(ベランダ)だけでなく、他人の庭も我が物顔に眺めて楽しんで居ます。

  引越しは東京に出てから4ヵ所目です。 私は何故か元々、同じ場所に長々と居られない性格なのかも知れない。 運命の星の悪戯の下に、狩猟民族の血を引いて居るかの如く、好むと好まざるに係わらず棲家が変わっていく。 生まれてから今までに都合15回位移り住んで居るかも知れない。
 
 私が初めて棲んだのは当然ながら生まれた処の生家である。 生家は山間の温泉街の片隅に在った。 当時は自炊もあり長期滞在の人達も多い温泉旅館街で、今の様なビルのホテル街では無く人情味が溢れていた温泉場だった。
 温泉場の片隅に今でいうと2DKくらいの、当時で謂うバラック建ての家で、狭いながらも楽しい我が家でした。 大雨の時などは家の脇の小川が氾濫して、小さな庭が川の様になり何時も床下浸水でした。 水が引いた後は庭に新しい砂が残り今思うとゴルフ場のバンカーの様でした。 又、庭には肥沃な土が流れ込み特別な肥料が無くても毎年綺麗な草花が咲いて家族の目を楽しませてくれました。 
 今も思い出すのは共同井戸端の脇のバダンキョ(プラム)の木です。 実が熟れる頃を待ちきれず獲って、甘酸っぱさに顔を顰めて食べていました。 その木にはよく縛り付けられた、母からの躾の一環にその折檻が有った。 因みに父からの躾は拳骨一発でした。 今は当時の仕出かしたであろう悪い事は記憶がおぼろげで、叱られた事だけを只々懐かしく思い出される。 多分当時の私は小魔しゃくれで小煩い小坊主だったのでしょう。 どの辺りの歳から形成されたのか今の沈着冷静?寡黙?な性格とは懸け離れて居ますね。
 
 次の家は小学5年生の頃で少し離れた処に新居が建ちました。 とは言っても単純な間取りの4Kで、しかも7割り方の仕上げで完成として引っ越しました。 平屋だったので2階建て憬れ、床に鏡を置いて見つめ仮想二階を夢見て居ました。 そんな私も三畳一間を無理やり占領し、押入れをベッド代りとして『私のお城』的な新居気分を味わって居ました。 この頃から今に至って「三畳一間」に縁が有るみたいで、頻繁に部屋を模様替えするのが趣味の様になって居ました。 
 新居で最初の誕生日の時、同級生四人組の親友と誕生会(当時、田舎では画期的だった?)を持ち回りでやろうと決め、お菓子を持ち寄って集まりました。
 その時丁度長姉が里帰りをして居て、それなら夕食を作ってあげる、と言い「カレーうどん」を作ってくれました。 その当時私達にはご馳走だった『カレーうどん』の美味しかった事、その後何年か続いたお互いの誕生会の度に語り草となりました。 四人組の誕生会は各家族の暗黙の承認も得て、其々に細やかなご馳走やプレゼントも交換するようになりました。 この頃からミーハー的性格が形成されたのでしょうか。
 
 そんな頃から始まった波瀾万丈の生活で15回以上も棲家を変える事となりました。 学生時代の下宿、下宿先の転居、新婚生活の借家、子が生まれて団地の持家、そして其処から仮住まいを5回程転々と移動しました。 そして最後の持家であろう団地の3LDKマンションに、今は妻と一緒に籍を置いて居ます。 
 私の終の棲家は何処になるのだろう?未だ私にも分からない。 これからの人生を予想するに、東京での仕事は元気なうちは当然続けたいと思う、仕事が心身的に全う出来無くなったら(70歳?80歳?90歳?)どうしよう、その時はその時で考える事にしょう。 私の人生観の一つに「一生懸命暮らして居ればキッと道は開ける」と有り、何時も楽観的に生きて居ます。