『新幹線上野駅』
ここ新幹線上野駅は何度利用しただろうか、もう数え切れないくらい往き来して居るだろう。 東北新幹線が大宮-仙台間を開通してから30年位だろうか、その頃から時々新幹線を利用して東京に出ていた。 その前は五時間も懸る在来線の特急だろうが、不思議とそれに乗って東京に出た記憶がない、記憶が思い出せないだけで多分何度か乗って居る筈ですね。 当時、初の海外旅行に行く時に、開通して間もない東北新幹線の仙台駅で、家族に見送られて、成田空港に向かった事を思い出す。 その時は開通間もない東北新幹線で文明の力を膚で感じて心がウキウキして居た。 その後も何度か仕事上での視察や勉強会で東京に出て居た。 勿論遊びも有りプロ野球観戦、絵画展や芸能文化の観賞、旧友との親交を兼ねた呑み会なども新幹線で上京し楽しんだ。 2年前の桜咲く頃に単身赴任し、当初は仙台上野間を月に2回は往復していた。64歳にしてではあったが、仕事に夢と希望を持ち『男の浪漫』を求めて、心躍る新幹線の車窓風景でした。 今以って新幹線上野駅を利用する度に、益々自分なりに充実した人生を送りたいと思い、心が躍動する日々です。 先日は母が他界しました、百歳と三カ月で天命を全うしたと謂う感じでした。母は老衰で逝く1ケ月前頃まで意識もしっかりして意思もハッキリして居ました。施設に見舞いに行った時などは、偶にしか来ない親不孝息子の私に「おぉ 昭か!」「仕事はして居るか?」等と声を掛けてきます。 母は耳が遠いので、私からあまり話し掛ける事は出来ないのですが、妻が代弁してくれるから笑顔を交わすだけでした。 「大丈夫! 昭はちゃんと働いて居るからね!」と妻が云う。 離れて居て何も出来ない私は妻に任せて仕事に励みました。 施設からいよいよ心の準備を、と兄弟達に伝えられました。 母は百歳を越えた頃から「そろそろ迎えに来て欲しい」と云っていた。 そしてその前に「1度自宅に戻りたい」と云ってほんの数時間だけ家に戻った。 病院に入院するのも嫌がり点滴も断ったりして、水だけを少し口に含み1ケ月暮らした。 そして静かに息を引き取って逝った。 こんな臨終にも私は立ち会う事は出来なかった。 そして通夜、葬式と母の最期のセレモニーにも満足に時間を割く事が出来なかった。 深夜、早朝、日中と問わず東北新幹線上野駅で飛び乗り、とんぼ返りで仕事に戻る。 3度程の往復をして告別式と仕事の面目を保つことが出来た。 新幹線の車窓の風景は、母への感謝と自分勝手な妥協でお詫びした、『我儘で風来坊で親不孝な息子を見守ってね! あなたの子供であった事を感謝してきっと幸せになります!』と。 私の兄弟姉妹は皆が地元に暮らして居るので、私は全てを甘えました。 妻にも私の不義理で辛い思いはさせてしまいました、家族や兄弟姉妹にお詫びと感謝で、『ゴメンね!ありがとう!』と。 また仕事に於いても周りの人達の温かいご協力得て、最大イベントを事無く終えた事を感謝しました、『皆さんありがとう、これからもご愛顧ください!』とね。
新幹線上野駅の人間模様は私自身でもこんなに有り、想い起こすと枚挙にいとまがありません。 毎日何万人も行き来する人達の、『出逢い、別離』の人生ドラマはどんなでしょうか大変興味が湧いてきますね。 次にこの駅に立つのは母の四十九日法要です。
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