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 オジーの東京ブラツ記0031『本土寺・紫陽花寺』 橘あきら  2018年10月1日(月) 11:43
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『本土寺・紫陽花寺』

 紫陽花の似合う梅雨の季節は、毎年何処かの紫陽花の名所に出向き散策をします。 今年の梅雨時は千葉県松戸市平賀の本土寺に行ってきました。 
 流石に紫陽花寺と謂われる様に、広い境内には濃い青や薄い青、淡い暖色系の花々が今真っ盛りと咲き誇って居ました。 寄せ植えの間を道すがら歩くと仄かな梅雨の香りがしてきます。 庭園の菖蒲池には、時期は過ぎていましたが少し前までは、彩とりどりの菖蒲の花も楽しめた筈でした。 小雨に煌めく露を湛えた紫陽花は私の心を癒します。
 此処『本土寺』は初めてなので、来るまではどんなお寺なのか知る由も有りません。 平賀忠晴の屋敷跡に曾谷教信が法華堂を建立したとされている。 後に日蓮に学んだ直弟子の日朗が本土寺として開山供養した。 日朗は鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧で下総国の出身、父は平賀有国。 幼少より才覚を表し16歳で日蓮を師として法を学んだ。 と、書いてあり由来の概要を初めて知った次第でした。

 話は突然に飛びますが、高校の時の歴史の授業を思い出しました。 歴史の授業で鎌倉時代の仏教界の状況、そして特に日蓮の活動等を学ばされました。 
 学ばされました、と言ったのは、実はその歴史の先生はベテラン先生でとてもユニークな授業を信条としているらしく、生徒6人位のグループにしてデスカッションをさせるのです。 何故?鎌倉時代に仏教活動が激動したのか等のテーマを投げかけ、各グループにアドバイスしながら廻り、そして発表させます。 この様な授業を通して、一方的に教えられるだけでなく自分達から何かしら学ばなければ、と感じさせられました。 
 
 ユニークなベテラン先生は私にとって他にもエピソードがあります。 先生は演劇部の顧問もしておりました。 部と謂っても文化祭が近くなると寄せ集めで立ち上がる臨時的クラブでした。 唯一人の部員の部長が熱心に年間計画やスケジュール立てていました。 傍から見ると彼は堅物で正義感が強くケンカも強いが情に脆い憎めない先輩でした。
 
 その年の文化祭も近づいて、計画が発表され原作・シナリオ・演出、キャスト、音楽・照明・大道具・小道具・スタイリストが決まり、部長から発表されました。 原作・シナリオ・演出はベテラン先生です。 キャスティングは事前に先生の作品への制作意向を聞いていた部長が割り振りました。 音楽や照明等、裏方は全て臨時部員を混ぜた全員です。 ストーリーは古代ギリシャの聖者が活躍する時代の或る聖者の物語でした。 舞台背景は倒壊した大理石の建造物群を思わせる廃墟です。 主役の聖者はキリストやソクラテスがダブった感じで、宗教家か哲学家か詳細は忘却の彼方です。 
 
 話は、そのキャスティングでの奇妙なエピソードが、私にとって少しほろ苦い思い出となってしまった、と謂う事です。 キャスティング発表で部長は、主役の聖者に私を割り振ったのです。 出演者は全学年から寄せ集めた臨時部員です、その中から台詞覚えが比較的良いから選ばれたのかくらいに思いました。 その日は台本を渡されて解散になり、翌日から台本読み合わせが始まりました。 確かに長い台詞が多く、中身も決して明るくなく重く荘厳な感じで全編を流れるのです。 長い台詞も受けた以上やる気満々で読み合せていました。 

ところが一週間目頃、練習風景の雰囲気が何故か違ってきました。 どうやら部長のキャスティングが間違ったらしく、自分で困惑して悩んで居た様子でした。 後輩の臨時部員が部長のコピー人間の様な正義感で、この配役は間違いで主役はK先輩だった筈なので代えた方が良いのでは、と提言しました。 気の弱い私は当然のこと、困惑して黙ってしまいました。 その他の聖者(その1)役のK先輩は優しく執り成し、みんな決められた配役で一生懸命練習して居るのだからそれで良いです。  そう謂えばこのシナリオは彼のために書き下ろしたのではないだろうかと感じました。 古代ギリシャの彫像に似た端正な顔と長身の筋肉質で、私とは真逆の容姿だった。 薄々気付いたその時点で辞退すれば良かったのかも知れない。
 
 ユニーク先生は台詞もここまで覚えたのだから大丈夫、これで行きましょうと立ち稽古の演出へと一段と力が入りました。 取り違えた張本人のおっちょこちょい部長は罰悪そうでしたが、直ぐにこの儘で行きましょうとノリノリで雰囲気を変えようとしていました。  私は皆の言葉を聞きながら悩んでしまった。 ここで即座に辞退すべきか、奇妙な機会ではあるがやり通すべきか。 辞退していたら私の今の人生は変わって居たのだろうか。
 
 この劇は古代ギリシャの聖者の様な風貌の先生が、原作・シナリオ・演出そして主演をすれば最も好い作品ではなかったろうか、と思います。 この先生のユニーク振りは以前に書いた応援歌の作詞、そして演劇部顧問、歴史、倫理社会の授業、それから美術クラブの一般応募の審査員もしていた。 美術の審査のユニークさも追々に書きたいと思っています。

 オジーの東京ブラツ記0030 『すみだトリフォニーホール《千人の交響曲》』 橘あきら  2016年8月31日(水) 15:54
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『すみだトリフォニーホール《千人の交響曲》』

 墨田区錦糸町の、すみだトリフォニーホールに『千人の交響曲』マーラー、交響曲第8番を観(聴き)に行って来ました。 錦糸町にこんな立派な、パイプオルガンや音楽設備の整ったホールが在った事を、 恥ずかしながら隣の区に住んで居ながら知りませんでした。 如何に東京は広く深く大きいか、私の無知さ加減が酷いかを感じさせられました。
 
 グスタス・マーラーは(1860〜1911)というから、51歳という若さで亡くなられたのですね。 亡くなる5年前に作られた、「交響曲は『世界』でなければならない。 全てを包含するものでなければならない」と言っています。 そして亡くなる1年前の50歳の時に、「これまでの私の全ての交響曲は、この曲に対する序曲に過ぎなかった。 と、またこの交響曲は偉大なる歓喜と栄光を讃えるものだ」と称されました。 マーラーはミュンヘン博覧会での初演を自ら指揮して、千人を超す演奏者と3000人の聴衆で生涯最大の成功を収めたそうです。
 
 交響曲第8番変ホ長調は、高らかに賛歌を唱えてから始まり、激烈な大合唱が歌われ続ける。 「この声の交響曲は、始まりから終わりまでずっと歌われている」と謂われる様に、オーケストラ・合唱団・児童合唱・8人のソリスト、それに若いエネルギッシュな指揮者(ダニエル・ハーディング)等が、魂を奮わせて歌い続けます。 当に「千人の交響曲」の度迫力その儘を、ホール一杯響かせて我ら聴衆を興奮のるつぼに導きました。 私も度肝を抜かれ狂うくらいのカルチャーショックを受けました。

 私と交響曲との出会いは、中学1年の音楽授業でのレコード鑑賞です。 最初の時間に『交響曲第6番』ベートーヴェンの「田園」を聴かされました。 初めて聴いたこの音楽は、私のそれまでの音楽の範疇には無かった異質な音楽でした。 しかし何故か見た事も無い情景が浮かび当にヨーロッパの田園風景が頭の中一杯に広がりました。
 
 こんな素晴らしい音楽の授業をしてくれたのは、当時新任だった女の先生でした。 見るからに才媛と思しき先生が口角泡を飛ばし、じゃなくて口端に泡が微かに漏れるほどに熱弁を奮って授業をしてくれました。 少し冷めて居る子が多い中、私は目新しい音楽の授業にドンドン興味を持つ様になりました。 
 私は子供の頃から音痴と謂われ、小学校の少年少女合唱団にも入れてもらえず、当時ハーモニカバンドの合奏団にも声が掛かりませんでした。 そんな音楽的素地が全くない子が、その女先生の授業で目覚めました。 音符とか音の決まり事が有ることも新鮮で、それがテストとして筆記試験になる事も驚きでした。 興味深く受けた授業なので定期考査なる試験も良い点を取ったものです。 如何せん根が音痴なので、音符を読んでそれを自分の声で正しく発声が出来ませんでしたから、独唱も合唱も大の苦手でした。 
  
 高校生の時に生徒会の役員をして居て、或る時、校歌と並ぶ「応援歌を作ろう」という事になりました。 それでは斬新な応援歌を作ろうという事になり、作詞は社会科のベテラン先生、そして作曲は音楽科の先生でした。
 この時の音楽の男先生は優秀な先生で、私達生徒会の要望に応えてくれました。 そして、ナント!! オペラ『アイーダ』、ヴェルディの第2幕第2場での「凱旋行進曲」をアレンジして作ってくれました。 
この『応援歌』発表の時は全生徒初め我々生徒会役員、そして先生方も全員が感激したものです。 まるでオペラの初演を演じ切った様な感動を覚えました。 50年以上経った今は、母校も何時の間にか統廃合の波に揉まれ、私の心からは消えてしまいました。
 
 学生の時もクラッシク音楽が好きで単位取得の件も有り受けました。 授業内容は殆どが交響曲のレコード鑑賞会だった様な気がします。 或る時、授業中に突然私に衝撃が走りました。 何時の間にか居眠りをしてしまい、何度か艪を漕いでいる内に突然後ろに倒れたのです。 パイプ椅子の様な簡単な物だったので、辛うじて椅子までも倒れはしませんでした。 が、全身鞭打ち状態になり、首は完全な交通事故状態でした。 それでも何食わぬ顔で座り直し授業を受け続けました。 周りの学生や先生は何も無かった様に、唯々冷ややかだったのは覚えています。 それから鞭打ち症で暫く苦しみましたが、痛いレコード鑑賞会授業は続きました。

 今、時々出掛けて居る芸術鑑賞会では居眠りして居ません。 『千人の交響曲』は居眠りどころか息をつく間もなく畳掛かる合唱音楽に、感動し私の 小さな胸が打ち震え続けました。 近日中の次なる芸術鑑賞も控えているので、期待に胸を膨らませて居ます。

 オジーの東京ブラツ記0029 『越後湯沢・「雪国」に想いこがれる』 橘あきら  2016年7月21日(木) 17:17
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『越後湯沢・「雪国」に想いこがれる』

 “国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。” かの有名な小説「雪国」の冒頭文ですね。 この川端康成の小説「雪国」は、遅咲きの思春期の学生時代に読み、何時も何かと憧れていました。
 
 当に雪の降る雪国、越後湯沢に行って来ました。 上越新幹線の長い県境のトンネルを抜けて湯沢に降り立った、スキー場も直ぐ目の前に在り、道も所々が雪の回廊に為っていた。 旅館のワゴン車に迎えられて先ずは宿へと、宿帳に記帳する間ももどかしく、川端康成が実際に執筆した宿『高半』にと案内して頂いた。
 
 高半は湯沢最古の老舗旅館だそうで、特に川端康成が逗留した部屋「かすみの間」は当時の其のままに保存して在るそうです。 川端康成が芸者(松栄)と過ごしたエピソードや、作中の主人公(芸者駒子)と島村の純愛悲恋物語や、川端康成が創作執筆に没頭している姿、 そんな事の想像が交錯する、時を超えた空間でした。 私も暫しこの甘美な空間に浸り、長火鉢の滾る薬缶の音を聴きながら、障子越しの雪景色に仄かな温もりを肌で感じました。 小説と映画と現実が混ぜ合わさり、私は「雪国」の世界に浸りきって居ました。

 私は、文学青年紛いかな?と思うくらい、読書好きでした。 ジャンル分けはしていませんが、興味本位の手あたり次第で、全くの系統付け無しで読んでいました。 そんな訳で学生時代は文芸部なる処に所属して、日夜雑多な文学論等を熱っぽく論破する仲間達の話を、半ば冷めながら聞いて居ました。 新入生の時、同期10人程で詩集を作ろうという事になり、ガリ版刷りで創刊号だけ一発のみの、300部を出版しました。 各自の原稿作り、表題名、編集校正、ガリ刷り、印刷、製本と各工程の作業を侃々諤々ワイワイガヤガヤと遣り合って、約1ヶ月で纏めた思い出が有ります。 そんな粗末な青春の一時の詩集でしたが、今は誰も「思い出」としても持って無いでしょう。
 
 そんな稚拙的怠惰な生活の中でも、私は何時も恋心を持って居ました。 或る時、山間の田舎に住む瞳が綺麗な純真な女性に恋心を懐きました。 早速、文学気触れの私は、彼女をモデルに純愛物語の短編小説を書く事にしました。 日本の有名な三大?純愛小説、川端康成の「伊豆の踊り子」、三島由紀夫の「潮騒」、三浦哲郎「忍ぶ川」を既に読んで居るので、感化か毒気か判らないが大いに気触れて居ました。 それで私は原稿用紙に何枚も何枚も書きなぐり、書いては捨て書いては捨を繰り返して居ました。 結局は完結せずに何処かに消滅してしまいました。 途中、幾らか纏まった時に、彼女に見せた様な気もするが、其のままだった様な気もする、何ともいい加減な最初で最後の純愛短編小説でした。
 
 私はまた恋文を描くのが好きで、大量のラブレターを書いては送り付けるのが得意でした。 その都度恋した女性に三日と空けずに、便箋で10枚を超す長文を書いて居ました。 内容はと言うと、今はもう忘れてしまいましたが多分、大した内容も無い駄文の繰り返しだったと思います。 それでも胸躍る淡い恋愛ゴッコでした。 相手は嬉しかったか迷惑だったかは余り頓着しなかった。 今時だったら手紙魔、恋文ストーカーかも知れないね。 そんな女性の一人に45年も一緒に暮らして居る伴侶が居ます。 尤もここ4年程は私の仕事の関係上、単身赴任で都会暮らしをして居るので、「夫、元気で留守が好い!」状態です。
 
 小説家のゆかりの地や、小説の題材に為った所や、記念館などの探訪旅行は大好きで良く行きます。 また旅行に行った先々で偶然に出遭うと嬉しくなり、新たな興味も沸いてきます。 九州小倉城では松本清張、湯河原温泉では何人かの小説家や歌人、加賀・金沢では室生犀星、伊豆天城峠の川端康成と「伊豆の踊り子」のゆかりの地などは当時の良き時代を感じさせます。 金沢や伊豆などは何度も行ってみたいし、情景を想い創作風景を身体で感じてみたい。 伊豆伊東温泉の或る別荘に行った時は、1室に風情の或る書斎が在った、これこそが作家が長期滞在して大作を執筆する処ではないか、と想われる夢の空間だった。 私も何時かは此処でせめて2泊3日で随筆を書きたい! ってね。 
 
 これからも彼方此方と旅をするかも知れない、そして多くの文学ゆかりの地に遭遇するかも知れない、または文学探訪の目的を持って出掛けるかもしれない、これから先もまだまだ楽しい「オジーの東京ブラツ記」を書き続けよう。

 オジーの東京ブラツ記0028 『隅田川水上バス』 橘あきら  2016年6月19日(日) 16:53
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『隅田川水上バス』

 浅草寺から隅田川水上バスに乗り込んだ。 江戸時代の下町風情が最も感じられるだろう隅田川界隈を、水面から多くの橋を潜り抜けて探訪したかった。
 吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、両国橋、新大橋、清洲橋、隅田川大橋、永代橋、中央大橋、佃大橋、勝鬨橋、それに川上の方に言問橋、桜橋、白髭橋と実に沢山の橋が架かっている。
 
 吾妻橋は、この付近に住んで居るので良く散策などで渡ります。 対岸の隅田公園は桜の名所で何度か花見に出掛けました。 ♪春の麗の隅田川、上り下りの船人が、櫂の滴を・・・♪ 言問橋から両岸を360度眺めると、桜並木が殊の外綺麗です。 キラキラ輝く水面に、行き交う屋形船や遊覧船が織り成す風情は、此処は「お江戸」なのかと思うほど長閑な風景です。
 
 駒形橋、厩橋、蔵前橋もよく渡ります。 蔵前界隈は以前に米蔵が軒を連ねていたそうです。 岸辺に、連なる蔵群や塀越しの松が見え隠れします。 江戸時代幕府の米蔵内に在った松の大木は、『首尾の松』と言って吉原へ船で往来する目印になっていたとか。 それぞれの由来、風景は遠い江戸、下町東京を感じさせる懐かしい風景です。 

 両国橋はかって両岸共相当な賑わいだったそうです。 東側は謂わずと知れた両国国技館が在ります。 大相撲は350年も昔の、江戸の頃から両国橋近くの、寺院境内で行われていたそうです。 今も相撲部屋が多く在り、『おすもうさん』が歩いていると、何やら嬉しくなる。 髷と着物で生活する風情は江戸時代を感じさせます。 大相撲は江戸時代の大衆文化の最たる物の様な気がする。 一般的に大相撲は、スポーツか文化か等と議論されたりするが、命を張ったスポーツでもあり、または何百年も掛かって築き上げられ伝承されてきた、大衆文化でもある様な気がします。 大仰な理屈で観ている訳ではないが、大相撲ファンで東京に出てから何度も足を運びました。
 
『すもう』の好きな私は、物心が付く頃から、遊び仲間たちと集まれば必ず相撲をしていた。 外でも内でも何処でもが土俵でした。 自分達の家や旅館の部屋は何時も見付かっては怒鳴られていました、「外で遊べ!」と。 相撲で真面目な話、私は小学校高学年で『将来の夢』は、と訊かれて「相撲取り」と答えていた。 当時身長は130センチ台だったと思うが、思春期にかけて大きく伸びることを確信して夢見ていた。 体は小さいが『すもう』だけは妙に強かった。 近所の相撲仲間にあらゆる遊びに長けた子が居た。 研究熱心で勝敗の結果をデータ化してノートに書きとめ、勝つための綿密な対策を練り実践して行く子だった。 後に将棋、囲碁、麻雀、競馬、野球、ボウリング、勉学とそれなりの頭角を現し、処世術に優れた立派?なサラリーマンに為った。
 その子は当時、私の得意技、『右上手出し投げ』に何時も負けて、嘆き研究をしていた。 私は立合って直ぐに左差し右上手を取る、所謂左四つ組手です。
 右上手で横まわしを充分に取ったら間髪を入れず、左差し手を抜いて頭を付け、体を左に大きく開き腰の捻りを利かせて、時には左手で相手の首筋を押さえつける。 この必殺技で大抵は投げ出すことが出来た。 彼はそれを研究し、そして得意の組手にさせまいと対策を立てて来た。 お互いが学習するので勝負は拮抗して大相撲?になった。 私の体の開きと腰の捻りは先天性なのか、他のスポーツではプラス面と致命傷的な面とに別れていった。 今、ゴルフに夢中だがフォームが全く駄目で、『右上手出し投げ』が災いしてか、未だに百切が定着していない。

 両国橋、清洲橋、永代橋は日本橋界隈、神田川を中心とする江戸時代からの運河都市でした。 江戸時代の中枢の街であり経済、社会生活、あらゆる分野の始まりの拠点でもありました。 当然、庶民文化も此処から発展して行く。 先に触れた吉原行きも、この界隈の柳橋から船は出た。 芝居町や浅草寺、吉原遊郭に入るには、柳橋から船に乗って駒形橋界隈や山谷堀で降りることが多かった。 吉原に入る船は、待乳山聖天(まつちやましょうでん)を目印に山谷堀に入り、細くなる堀の溜まり場で、船を降りて土手通りを歩いて行ったそうです。 当時は勿論のことだが、今も柳橋は何とも言えない情緒があって、唯一水の都の名残が残っている。 今でも屋形船などの宴の船に乗る処、として機能している。 花街は、今も昔も私には縁遠い話ですが、隅田川界隈には実に多い。 柳橋、深川、辰巳、吉原、いずれも行った事は無いが、江戸の庶民文化探訪としては覗いてみたい処ですね。

 「橋巡り」のこの先は 新大橋、清洲橋、隅田川大橋、永代橋、中央大橋、佃大橋、勝鬨橋、と潜り抜けて浜離宮へと行きます。 勝鬨橋は銀座、築地を散策した時に渡った。 袂の標識に『かちどきのわたし』と記してあって、縁起の良い語呂合わせだなと思い、フッと笑ってしまった。 橋の西岸はビッシリと船着き場が並ぶ築地の魚市場全風景が見えます。 間もなくこの市場は対岸の埋め立て地に急ピッチで建設、移転されます。 東京は何につけても最高ですね、実に素晴らしいですね。 私の『オジーの東京ブラツ記』も、今度は何処に行こうかな? まだまだ続きます。

  オジーの東京ブラツ記0027 『憧れの谷川岳』 橘あきら  2016年5月6日(金) 1:51
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『憧れの谷川岳』

 先日は残雪の残る谷川岳の麓に行って来ました。 群馬県みなかみ町の谷川岳ロープウェイで天神平スキー場まで登り、3日ほど前にクローズに為ったスキー場から、憧れの谷川岳を望んで来ました。 残雪の白と青のコントラストに輝く雄姿に圧倒されて、私の心は畏敬の念で感動に震えました。

 登山は子供の頃から何故か憧れていました。 特に専門の知識を学んだり、装備を整えたり、訓練をする訳では無く、漠然とあの山に登りたい、『登ろう!』
と謂う様な単純な動機で思っていました。 
 私の田舎に高さ400メートルくらいの、裏山程度の山が在り、それは葉山と言う名で、家から5キロメートルくらいでした。 小学4年の夏休みに近所の子供たち4〜5人とプチ登山と洒落込みました。 無謀だったかどうかは判りませんが、当時の親達も誰も咎める事も無く関心さえなさそうでした。 登山道も無くただ獣道の様な道を、重なり合った笹薮を何度も潜り抜けて山頂に達しました。 山頂とて整備されている訳でも無いから、大きな木々の合間から街を見通して、「あれが俺たちの部落だな!」、等と言いながら登頂感を味わった思い出があります。
 
 無謀と謂えば中学一年の頃に、家から30キロメートル先山奥の、蔵王連峰大東岳に登ることにしました。 標高は四千尺というから1200メートル強の、今思うと大人でも可成りハードな山で、小学校の校歌にも謳われている憧れの山でした。 学校の夏休みに『初めての独り旅』を決め込み、二泊三日の行程で綿密(?)な計画を立てました。 リックサックに詰るだけ詰め込んだ装備(?)と、精一杯の食料を背負い早朝に自転車で出発しました。 途中20キロメートルくらい先のキャンプ場で一泊して、翌日また早朝に出発する計画でした。
 私はその当時、多分140センチに満たない身長だったと思います。 そして自転車は今の自転車とは比べ物に為らないくらい粗末な実用車、しかも道路は全線砂利道です。 ちっちゃい男の子が脚も満足に届かない自転車で、砂利道を20キロメートルも、荷物を着けリュックを背負って走るのは、無謀を越して多分滑稽そのものだったでしょう。
 夕方着いたキャンプ場には、当然の事ながら他の大人や子供たちのグループや家族の人達が沢山居ました。 皆がはしゃいで夫々に食事やキャンプファイヤの準備をしていました。 私も片隅に遠慮がちに野宿の準備をしました。
 山の出会いは自然の開放感の所為か直ぐに挨拶を交わし親しくなります。  早速、子供達や大人に混じって遊び回って居ました。 ここでのキャンプは小学校高学年の校外学習で来ていたので、直ぐ側の渓流や遊歩道の探検そしてファイヤー用の木々集めと楽しく遊んでいました。 やがて独りでキャンプに来ている経緯等を気さくに話していると、一つの家族親戚グループに夕食とキャンプファイヤに招待されて、益々親しく為りはしゃぎ回って居ました。 
 ♪遠き山に日は落ちて・・・♪の合唱も終わり、やがてキャンプファイヤの残り火もちょろちょろと為る頃、大人達の一人の山男が静かに言った。 「明日の単独登山は止める様に」と、私の人格を潰さない様に、の配慮が充分に籠った言葉で話しました。 私はその場では即答しなかったような気がします、薄々自分でも余りにも無謀な計画と思えてきたので、『止めようかな』と思い始めていました。 
 結局翌朝は早朝どころか、周りの朝の準備の喧騒で起き出しました。 「行かなかったの?」の問いに「ハイ止めました」と答えて、其のまま又はしゃいで遊んでいました。 大人たちは無謀・無頓着な子供の言動を解って居たのだね、そのまま其の事に着いては問う事もありませんでした。
 後に大人に成ってからはこの大東岳には幾度となく登りました。

 無謀ついでにもう一つ、50歳の時の大病の1年半後だったか、やはり蔵王連峰の船形山に登りました。 残雪の残る5月初め、登山道は雪山登山と変わらないくらいでしたが、幸いに快晴で絶好の登山日和でした。 遠く東は仙台平野に太平洋、西は朝日岳連峰と絶景を眺望しながら、雪渓で冷やした山頂でのビールは格別です。 
 早々の下山はお尻スキーで大ハシャギ、沢の雪渓を注意深く歩きながら、それでも足を滑らせてスッテンコロリ、ズボンは泥だらけです。 やがて険しい登山道は終わり、駐車場まで砂利道の林間道。 そこを降りる頃は疲れがピークなのか脚が攣り出し、膝が諤々笑い出し歩けなくなりました。 それにも増して山頂を降りる頃から、咳が止む事無く続いて居て、痰に血も滲む様になりました。 
 勿論、慌てて病院に行きましたが、「持病に血液をサラサラにする薬が処方されているので、肺から出血したのでしょう、2〜3日で治るでしょう」との事。 特別な事にはなりませんでしたが、後で思うと、これも又大変な無謀行為でしたね。 それ以後は高い山に登山していません。

 私は有名な山が好きです、良く謂われる言葉に、『有名な高い山を望める処に育った人に将来大成する人が多い』と。 そう謂う訳では無いのですが、東北の百名山、日本の百名山等には憧れて、東北では早池峰、焼山、栗駒岳、月山、鳥海山、船形山、五葉山、蔵王熊野岳、大東岳、吾妻小富士等などに登りました。
 東京に出てからは、高尾山、そして日本百名山を麓から望む、上高地から穂高連峰、そして今回の天神平から谷川岳を、と望んできました。 もうこれからは高い山の登山は出来ないでしょう、せめて名山の麓で『百名山の制覇』に臨みたいですね。 日本一の富士山も登ってみたい、と謂う強い気力も薄らいできましたが、裾野で畏敬の念を懐きながら、富士山パワーに包まれてゴルフをしたいですね。

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